安楽死反対は誰を守っているのか──障害者団体・福祉系NPOの論理構造を検証する
- リップディー(RiP:D)

- 1月24日
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更新日:1月28日
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安楽死反対と障害者団体──「守る」という理念が当事者の尊厳を奪うとき
日本における安楽死反対論と障害者団体の影響力
安楽死制度をめぐる議論において、日本ではとりわけ
障害者団体および福祉系NPOによる反対論
が大きな影響力を持ってきました。彼らは「弱者を守る」「命を守る」「社会的圧力から人を守る」という理念を掲げ、安楽死制度の導入に強く反対しています。
その主張は一見すると極めて正義的であり、人道的です。
しかし、私たちはここで、その論理構造と社会的影響を冷静に検証する必要があります。
なぜなら、その「守る」という言葉が、結果として当事者の尊厳と自己決定権を深く侵害している可能性があるからです。
障害者団体・福祉系NPOに共通する安楽死反対論の構造
これら団体の主張は、概ね以下の三点に集約されます。
① 安楽死は「命の価値に序列をつける制度」である
安楽死制度が導入されれば、「障害者や高齢者、重病者は生きる価値が低い」というメッセージが社会に広がり、命の序列化が進む、という懸念です。
② 社会的圧力により、弱者が死を選ばされる
制度ができれば、本人の自由意思とは無関係に、「家族に迷惑をかけたくない」「社会的負担になりたくない」という圧力から、死を選ばされる人が増えるという主張です。
③ 問題の本質は支援・福祉・ケアの不足である
安楽死制度の議論は、社会保障や福祉の未整備を覆い隠すものであり、本来は支援体制の拡充こそが解決策であるとされます。
これらはいずれも、人権や福祉を重視する姿勢から発せられた主張であり、決して軽視されるべきものではありません。
しかし、その論理には重大な構造的問題が含まれています。
「命の序列化」論は安楽死制度をどう誤解しているか
安楽死制度を「命の価値に序列をつける制度」と位置づける議論は、一見もっともらしく聞こえます。しかし、これは制度の本質を根本から誤解した議論です。
安楽死制度が対象とするのは、「障害者であること」「高齢であること」「社会的弱者であること」ではありません。
対象となるのは、医学的に回避不能な耐え難い苦痛と、本人の熟慮された意思です。
つまり、評価されているのは「命の価値」ではなく、「苦痛の深刻さ」と「自己決定」なのです。
にもかかわらず、「命の序列化」という枠組みで安楽死を批判することは、当事者の苦痛を、社会的理念の名のもとに無視する行為にほかなりません。
社会的圧力論が生み出す新たな強制の問題
社会的圧力の危険性を指摘する反対論は重要です。
しかし、その議論はしばしば、別の形の圧力を正当化する論理へと転化しています。
すなわち、「圧力が存在する可能性がある以上、誰にも死を選ぶ権利を認めてはならない」という考え方です。
これは一見、人権尊重のように見えて、実際には、
生きることを義務として強制する思想
にほかなりません。
結果として、
耐え難い苦痛の中で
回復の見込みもなく
明確な意思を持って死を望む人
に対しても、「あなたの選択は認めない」と社会が一方的に宣告する構造が生まれます。
これは、自由意思の否定による新たな強制であり、決して「弱者保護」と呼べるものではありません。
※更なる詳細は、こちらから
「支援があれば救える」という福祉幻想の限界
反対派が繰り返し強調するのが、「問題は制度ではなく、支援やケアの不足である」という主張です。
しかし、この議論には重大な現実否認があります。
現代医療と福祉がいかに発展しても、すべての苦痛を取り除くことは不可能です。
実際、
緩和医療を尽くしても制御不能な疼痛
呼吸困難や窒息感
神経変性疾患に伴う進行性の尊厳喪失など、
支援やケアでは克服できない実存的な苦痛が存在します。
それにもかかわらず、「支援があれば救える」「制度を議論するのは早すぎる」と主張し続けることは、当事者の現実を理論の中に押し込める行為です。
※「緩和ケアの限界」については、こちらから
誰のための弱者保護なのか──当事者の声はどこへ行くのか
障害者団体・福祉系NPOの反対論には、「弱者を守る」という言葉が繰り返し登場します。
しかし、ここで問われるべきは、誰が、誰を、何から守っているのかという点です。
安楽死を望む当事者の声は、「社会から消されたい」という自己否定ではありません。
それは、「これ以上の苦痛を拒否したい」「自分の最期を、自分で決めたい」という、極めて切実な尊厳要求です。
この声を、「社会的に危険だから」「理念に反するから」という理由で封じることは、果たして弱者保護と呼べるのでしょうか。
安楽死制度は死の強制か、生の自由の回復か
安楽死制度は、死を促す仕組みではありません。むしろ、生き方と最期を選ぶ自由を回復する制度です。
制度が存在しない社会では、
誰にも相談できず
非合法な手段に頼り
孤独な死を迎える
という、より悲惨な現実が放置されています。
制度化は、死を選ぶ自由と、生き続ける自由の両方を等しく保障する枠組みとして設計されるべきものです。
まとめ:理念が個人を覆い隠すとき──全体主義的思考への警鐘
障害者団体・福祉系NPOが掲げる理念には、人権や包摂を重視する真摯な問題意識が含まれています。
しかし、その理念が唯一の正解であるかのように扱われるとき、当事者一人ひとりの現実や意思は、容易に背景へと退いてしまいます。
「弱者を守る」という抽象的理念が、個別の苦痛や選択を上書きしてしまう構造は、慎重に検証されなければなりません。
このように、理念が個人の現実よりも上位に置かれ、異なる選択肢が排除されていく構造は、歴史的に全体主義やファシズム、さらにはナチズムにおいて繰り返し確認されてきた思考様式と重なります。
それは暴力的な形を取らずとも、「正しさ」の名のもとに静かに進行します。
本来、福祉や人権の思想は、多様な生き方と価値観を前提とするものです。にもかかわらず、
特定の理念が社会全体に一様に適用され、異なる選択肢を認めない姿勢へと転じる
ならば、それは理念本来の目的から静かに逸脱していきます(全体主義への移行)。
安楽死をめぐる議論においても同様です。当事者の熟慮された意思よりも、「こうあるべきだ」という理念が優先されるとき、そこには無自覚な統制や排除の力学が生まれます。
それは意図せざるものであっても、結果として個人の自由を制限する方向へ社会を導く危うさをはらんでいます(全体主義の復活)。
特定の理念が社会全体に一様に適用され、異なる選択肢を認めない姿勢へと転じるならば、それは歴史が示してきた全体主義的思考
――ファシズムやナチズムに見られた価値の単一化――
と本質的に同型の危うさを帯び始めます。
RiP:D は、理念によって人を守るのではなく、人の声によって理念を問い直す社会を目指します。
尊厳ある最期を選ぶ権利が、多数派の価値観や抽象的正義によって否定されることのないよう、私たちは今後も、当事者の現実に立脚した議論を積み重ねていきます。
正しさは、時に人を救います。
しかし、正しさが問い直されることを拒んだ瞬間、それは人を縛る力へと変わります。
誰かの選択を「危険だから」「社会のためだから」と否定するとき、
私たちは知らぬ間に、「自分がその立場にならない前提」で安心してはいないでしょうか。
その問いから目を逸らさないことこそが、民主社会に生きる私たち一人ひとりに課された責任です。
障害者団体に見られる安楽死反対論の典型的構図(参考事例)
以下は、日本における障害者団体・福祉系NPOの安楽死反対論に特徴的な思考構造と、その言語表現を理解するための代表的な一例です。
これらの議論は、「弱者を守る」「命を守る」という理念を出発点としながら、
結果として当事者自身の自己決定を否定する方向へと収束していく傾向を持っています。
重要なのは、こうした言葉が悪意から発せられているわけではない点です。
多くの場合、それらは「正しさ」や「善意」を自認したまま語られます。
しかし、その善意が唯一の正解として社会に提示され、異なる選択肢を許容しなくなったとき、理念は支援から統制へ、共感から規範へと、静かに姿を変えていきます。

林さん(& スイスで安楽死した人々)に対して同情するなどあまりにも浅はかです。
安楽死という名の自殺などだ、ということを分かってほしいです。
⇧
安楽死を「ただの自殺」と決めつけるのは、回復しない病気と、壮絶な苦痛を耐え続ける人々を無視した議論です。
生きることだけを正解にして、別の選択を認めない考えこそが、価値観の押し付けです。
自分が生きたいと思う自由があるなら、他人が最期を選ぶ自由も同じように尊重されるべきです。
『自分自身だけに言い聞かせている理念』を守るために個人の尊厳を切り捨てる社会は、弱者を守っているようで、全体としては、実は縛っているだけです。

林さんは誰から見ても気の毒だという人が圧倒的に多いですが、実はどのような人が気の毒かということが差別なのです。
⇧
「気の毒だ」と感じること自体を差別だと断じるのは、人が他者の苦痛に共感する力そのものを否定しています。
苦しみに心を動かされることと、人を見下すことは、まったく別の行為です。
共感をすべて差別と呼ぶなら、社会は他人の痛みに沈黙するしかなくなります。
それは人権を守る態度ではなく、苦しむ人を孤立させる態度です。
共感を封じる言葉こそが、最も冷酷な線引きになり得ることを忘れてはなりません。

そうではないと思います。人はその構成している社会の中で生きているのだから、死ぬことを自分で決められる訳がないと思います。
⇧
人は社会の中で生きていますが、だからといって苦痛まで社会が引き受けてくれるわけではありません。
生き方を自分で選べるのに、死に方だけを全面的に否定するのは論理として不整合です。
社会を理由に個人の最終判断を奪うなら、それは支援ではなく管理です。
誰の人生で、誰が痛みに耐えているのかを見失ってはいけません。
社会を盾に個人の選択を封じる考えは、自由を守る思想ではなく、自由を制限する思想です。全体主義の萌芽に等しい考え方です。

社会や誰かにどのような影響を及ぼすかについて考えずに、死ぬ権利を持たせろと主張するのは、それまでに社会で生きてきたことに対する裏切りです。
⇧
社会で生きてきたことは、最後まで苦しみ続ける義務を負うことではありません。
人が社会に関わってきたからこそ、その人生の終わり方にも敬意が払われるべきです。
影響を理由に個人の選択を否定するなら、人生は最初から社会の所有物になってしまいます。責任とは、耐え切れない苦痛を黙って引き受けることではありません。
「裏切り」という言葉で最期の選択を封じることこそ、人の人生を手段として扱う発想(全体主義)です。

そうしたら私の周りの介護士や支援者らに裏切り者と言われるでしょう。
林さんも(スイスで安楽死した人も…)ですが、死にたくなったとしても、あんな死に方をしてはいけないのです。
⇧
誰かを悲しませるからという理由で、耐え難い苦痛まで引き受け続ける義務はありません。
支援者への感謝と、自分の最期をどう迎えるかは、別の問題です。
「してはいけない死に方」と他人が決めた瞬間、当事者の人生は他人の所有物になります。
裏切りという言葉で選択を封じるのは、支援ではなく感情による拘束です。
感謝を理由に自由を奪う社会は、優しさを装った強制に変わってしまいます(全体主義の萌芽)。
障害者運動の文脈を体現する人物の経歴と位置づけ
(岡部宏生:NPO法人 境を超えて元代表 DPI 日本会議 元理事)
彼はNPO法人「境を超えて」の元代表であり、
国際的な障害者権利団体であるDPI日本会議の元理事を務めてきた人物です。
長年にわたり、日本の障害者運動と福祉政策の現場に深く関与してきた経歴から、その発言は個人的見解というより、
障害者団体・福祉系NPOに共有されてきた
理念や価値観を色濃く反映する
ものと位置づけられます。
本稿が、障害者団体や福祉系NPOが安楽死に反対する際に、どのような価値観や思考枠組みに基づいて議論を構築しているのかを理解するための、一つの手がかりとなれば幸いです。







