安楽死 反対 医師|勝俣 範之|発言の検証と緩和ケアの限界
- リップディー(RiP:D)

- 1月4日
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🎧音声による動画解説
安楽死反対医師・勝俣範之の発言が示す
緩和ケア万能論と日本医療の深刻な問題
(安楽死 反対 医師)

勝俣範之とは誰か|緩和ケアと腫瘍内科の専門医
基本プロフィール|勝俣 範之(かつまた のりゆき)
名前:勝俣 範之(かつまた のりゆき)
現職:日本医科大学 武蔵小杉病院 腫瘍内科教授(2011年10月より)
出身・学歴
1963年生まれ(山梨県富士吉田市出身)
富山医科薬科大学 医学部 医学科 卒業(1988年3月)
専門分野
腫瘍内科(がん総合内科) — がん治療全般の診断・薬物療法/化学療法
抗がん剤治療(薬物療法)・支持療法
乳がん・婦人科がんの治療
緩和ケアの実践と普及(診断時・治療中からQOLを重視したケア)
がん患者とのコミュニケーションと生活支援
臨床試験・エビデンスに基づく医療の推進
安楽死ドキュメンタリーと予言された現実
「緩和ケアを知っていれば」という言説

フジテレビ ザ・ノンフィクション
【私のママが決めたこと~命と向き合った家族の記録~】
(女性のXアカウントはこちら ⇒ @mahomelc)
『マユミ』さんのXアカウント名は『めいしー』です。
2024年6月2日に放送されて大きな反響と話題を呼んだ安楽死ドキュメンタリーを御覧になった方も多いと思います。

私が安楽死した暁には
「母親なのに無責任だ」
「自分勝手すぎる」
といった批判で埋め尽くされるであろうことを改めて認識した今日という日
どうか安らかに
あと
「緩和ケアを知っていれば …. 」
「緩和ケアがあれば苦痛はとれる」
「生きるための緩和ケア!」
と言いながら緩和ケアの先生登場まである(確信)
彼女はスイスへ旅立つ前にXにて沢山の投稿文を残していました。その一文です。
前文は杞憂で、むしろ多くの人々の温かい言葉が寄せられましたが、後文での「緩和ケアの先生登場」という予測は的中していました。
緩和ケアの限界を直視せず
患者を“安心させる言説”に安住していないか


「安楽死を受けたい」という患者さん。
できるだけ、最後は苦痛がなく、楽に亡くなりたい、テレビでやっていたように、スイスに行かないとだめなのでしょうか?と聞かれ、
「緩和ケアで、ほとんどの痛みをなくすることはできる、それでも難しい場合は、鎮静といって、眠らせることもできる」とお話したら
「まったく知りませんでした。緩和ケアは、何もしないところと思っていました。それなら緩和ケアを受けたい」と言われました。
一般には、緩和ケアが何をしているのか、あまり知られていないのですね。
この投稿はドキュメンタリー番組が放送された、わずか3日後の投稿です。
一見すると、患者の不安を和らげようとする善意からの発信に見えます。
しかし、この語りには、現実の限界を軽視し、患者の苦悩を単純化する思考が色濃く反映しています。
控えめに言って、いわゆる“死体蹴り”であり、死者を侮辱するものに値します。
「ほとんどの痛みはなくせる」という誤解
緩和ケアが保証できない現実
緩和ケアは、WHO定義にあるように、痛みや身体的・心理社会的苦痛を評価し、可能な限り和らげることを目標とするアプローチです。
しかしその役割は「苦痛の緩和」であり、
苦痛の完全消失を保証するものではない
ことを、当会では再三強調しています。
データが示す日本の緩和ケアの実態
身体的苦痛は今も残されている
実際、日本における調査では、がん拠点病院等で「身体的苦痛なく過ごせた」と答えた人は50%前後にとどまり、緩和ケア病棟でも80%前後です。
【2011年7月19日 第5回緩和ケア専門委員会議事録】
つまり、相当数の患者が依然として身体的苦痛を経験しています。
この現実は単なる数字ではなく、「患者が耐え難い痛みや苦しみを感じている可能性」を示しています。
ここを曖昧にして、
“ほとんどの痛みがなくせるから大丈夫だ”
と語ることは、現実の苦痛を矮小化し、患者の深刻なニーズを見落とす危険につながります。
持続的深い鎮静の本質
それは苦痛の解決ではなく「意識の切断」である
「眠らせればよい」という危険な単純化
日本の鎮静運用が抱える制度的限界
投稿では、「それでも難しい場合は鎮静で眠らせる」と軽く説明されていますが、この表現は重大な勘違いを生むものです。
持続的深い鎮静(持続鎮静)は、最終手段として選択される医療行為であり、
苦痛そのものを消去するのではなく、患者の意識・感覚を遮断する術
であると指摘してきました。この持続鎮静は別称「間接的安楽死」と呼ばれるもので、苦痛の構造的な解決にはならないという批判すら欧州では存在します。
さらに、日本の臨床において、
・鎮静開始の適応基準が統一されていない
・医師の裁量・心理的恐怖により実施が遅れるなど、制度的・運用上の限界が存在する。つまり、現場では理想どおりに「苦痛を取り去るために鎮静できる」とは限らない。
こうした実情を抜きにして「眠らせればいい」と語ることは、緩和ケアの限界と臨床現実を完全に無視した表現です。
先に登場したドキュメンタリー番組の女性患者は、この事実に愕然として呆れ果て、スイスで“安らかな死”を求めました(番組はそこに言及していません)。
つまり日本の緩和ケア体質に“見切りを付けた”ということです。

緩和ケア万能論が生み出す誤解
安楽死を歪めて語る構造
もっと根本的な問題は、こうした言説が生み出す誤解の枠組みです。
「緩和ケアがあるから、安楽死のような選択を考えなくてもよい」
という語りは、一見すると患者に希望を与えるように見えます。しかしこれは、
緩和ケアの役割を過度に理想化し、限界を隠蔽する言説
です。
この種の「緩和ケア万能論」は、世界的・日本的な緩和ケアの限界や、鎮静の制度的未整備といった現実の構造的問題を覆い隠しています。
そして、 患者自身の真の苦悩や希望を正確に評価する機会を奪っています。

日本だと、緩和ケアがしっかりと理解、広まっていないので、安楽死に希望があるように誤解され、安易に安楽死に流れることを危惧します。
日本だとすぐにビジネスにしようとする輩が出てきたり(???)、病人を姥捨て山のように、安楽死に追い込んだりするような風潮(???)になったりすることを危惧します。

安楽死反対メディアの一角:毎日新聞の記事より
医療者の責任とは何か
安心ではなく現実を伝える義務
医療者には、患者の不安や恐怖を和らげる役割があります。ですが同時に、
現実を誠実に伝える責任があります。
・緩和ケアは苦痛を和らげる有効な手段である
・しかし、全ての痛み・苦悩を消せるわけではない
・持続鎮静は意識の遮断であり、本質的な解決ではない
・日本の臨床現場では制度的・運用上の限界がある
これらの事実を正確に伝えず、「大丈夫だから安心して」と語ることは、患者・家族の現実的な意思決定を歪め、不必要な期待や後悔を生むリスクを孕んでいます。
緩和ケア界全体に求められる反省と対話
緩和ケアは医療として重要なのは言うまでもありません。多くの患者がその恩恵を受け、QOLが向上しているのは明らかです。ですが同時に、
限界を直視し、自らの語りと実践を検証するプロセスが必要
です。
患者の選択や苦悩を軽視するような言説は、緩和ケアの信頼を傷つけるのみならず、医療倫理そのものへの不信を招きかねません。
医療者が安心感だけを提供するのではなく、
現実を誠実に伝える姿勢を持つことこそ、真の意味で患者を尊重するケアではないでしょうか。
だからこそ安楽死制度が必要である
緩和ケアの先に残る苦痛への社会的責任
それは緩和ケアを否定するためではなく、
緩和ケアではどうしても救えない苦痛が現実に存在する
という事実を、社会として正面から引き受けるためです。医学は進歩しましたが、苦痛を完全に消し去る万能の手段には到達していません。
身体的疼痛、呼吸困難、極度の倦怠感、そして「生き続けること自体が耐え難い」という全人的苦悩は、最善の緩和ケアと鎮静をもってしても残存する場合が多々あります。
そのとき患者に提示される選択肢が、「意識を失ったまま死を待つ」か、「耐えながら生き続ける」しかないのであれば、それは本当に患者の尊厳を守っていると言えるでしょうか?
安楽死制度とは、医療が敗北したことを宣言する仕組みではありません。
医療の限界を正直に認めたうえで、
なお患者の自己決定と尊厳を守るための、
最後の安全弁
です。緩和ケアを尽くした先に、それでも残る苦痛がある現実を直視すれば、安楽死を
「不要」と切り捨てることは、患者に対して
あまりに一方的で、非倫理的
ですらあります。

なぜ医師は安楽死を過剰に否定するのか
緩和ケア万能論の背後にある構造
それにしても、勝俣氏のような緩和ケア医たちが、なぜ『緩和ケア万能論』を必死になってメディアで唱え続けるのか?
そして科学合理をもとに思考するはずの医療者が、なぜ過剰に安楽死を否定するのか?
皆さん、不思議に思わないでしょうか?
日本の医療界では、異様なまでに安楽死が忌避されます。
この強度は、医学だけでは説明できないでしょう。
理由は、医療技術や緩和ケアなどとは、全く関係ない『非医学的理由』にあるのですが、そこはいずれ言及していく予定です。
(※リンク先 → 未)






